伊東を掘りおこそう!

歴史

伊東からの石は江戸城の基礎となった

刻まれた刻印が江戸時代を物語る石丁場

羽柴越中守石場の文字が刻まれた石

宇佐美の中心集落北側にあるナコウ山に「羽柴越中守石場」と刻まれた石があります。羽柴越中守とは戦国〜江戸時代に活躍した武将・細川忠興のことです。この文字が刻まれたのは慶長年間です。これは、徳川家康の命によって、各地から江戸城石垣を築くための石を供出させたときの刻印なのです。

徳川家康は1603年(慶長8)に江戸に幕府を開きました。江戸城は以前からあった城でしたが、家康の開府後、史上最大の城郭として築城するため、家康から将軍3代にわたり西日本の大名に石を送らせました。この時代には江戸城の他にも名古屋城、丹波篠山城などの修築に大名が集められました。これを「御手伝普請」と呼びます(のちに『天下普請』ともいわれました)。

伊豆半島は“伊豆石”という良質な石を産出していたため、各地の大名が石を切り出しました。刻印は、採石した大名を示したり、現地での採石者を示すために刻まれたといわれています。その採石場所が今も石丁場として残っており、宇佐美のナコウ山の石丁場(宇佐美北部石丁場群)は、2016年(平成28)に国指定の史跡に指定されています。「羽柴越中守石場」の文字がある石は山頂近くですが、中腹には稲葉家や毛利家などの刻印石も見られます。伊東市には約85の石丁場が残っているとも言われていますが、同じ石丁場でも違う時期に異なる大名が石丁場として使われていることもあり、正確な数はよく分かっていません。

伊豆石は主に2種類あり、安山岩系の硬い石と凝灰岩系の軟らかいものがあります。江戸城の石垣に使われたのは安山岩で、この石を切り出して運び出し、3000隻もの石船で江戸まで運んだと言われています。すべて人力の大変な作業でした。江戸城は明暦の大火で天守閣まで焼失していますが、火災に強い伊豆石は残り、昭和期の空襲でも残りました。江戸城の石垣は9割以上が伊豆石でできており、今も石垣として残っています。

刻印された江戸城の石垣用の石

富戸の横磯海岸もかつて石丁場で今も跡が残る

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