伊東を掘りおこそう!

歴史

イギリス人ながら家康のブレーンに 三浦按針

日本発 洋式帆船の誕生は外国人指導のもと伊東で完成

伊東市役所に展示されている三浦按針の指導で造った洋式帆船サン・ブエナ・ベントゥーラ号の模型

1564年(永禄7)にイギリスで生まれたウィリアム・アダムスは、日本名を三浦按針といいます。1589年(天正17)にオランダの「リーフデ号」その他4隻の船が極東探検のために乗組員を探していることを知り参加したところ、数々の病魔や事故のため苦難の航海を強いられ、1600年(慶長5)に台風にみまわれ豊後臼杵に漂着します。謁見した徳川家康はアダムスの人柄と語学力、航海術などの知識を気に入り、日本に住まわせます。そして外国使節との交渉の通訳なども依頼し、重用します。

さらに造船の知識も持つアダムスに洋式の帆船を作るよう命じます。アダムスは松川の河口に砂ドック方式を取り入れて80トンの洋式船を建造し、1604年(慶長9)に完成させます。この様子は三浦浄心の『慶長見聞集』に「伊豆の国伊東と言う浜辺の在所に川あり。是こそ唐船作るべき地形なりとて、其の浜の砂の上に、柱を敷き台として其の上に舟の敷を置き、半作りのころより砂を掘り上げ、敷台の柱を少しずつ下げ、堀の中に舟を置き、此の舟海中へ浮かべる時に至って、河尻を堰きとめ、其の河水を舟の有る堀へ流し入れ、水の力を持って、海中へ押し出す」と書かれています。ついで120トンの船も建造させました。

この功績をたたえて、家康は、250石の旗本として領地を与え帯刀も許します。日本で初めての外国人の旗本誕生です。アダムスは、家族のいるイギリスへ帰ることなく、家康亡き後には長崎・平戸へ移り、波乱の生涯を終えました。

三浦按針ことウィリアム・アダムス。

右手前が三浦按針(ウィリアム・アダムス)が乗っていたリーフデ号

画像はパブリック・ドメイン

関連記事

PAGE TOP