伊東を掘りおこそう!

歴史

江戸城本丸御用達のボラは伊東から

村総出で漁が行われたボラは名産品でもあった

ボラの回遊を見張った富戸の見張り小屋(県指定有形民俗文化財)
写真:『図説 伊東の歴史』より

今ではあまり食べられなくなってしまったボラですが、江戸時代から昭和30年代あたりまで、各地の沿岸で漁が行われるほど主要な魚でした。富戸でもボラ漁が盛んで「富戸のボラは味が良い」という定評があり、江戸城本丸や西丸へも納めていたほどでした。

江戸時代、人々はどのようにしてボラを食べていたのでしょう。献上されたボラは儀式の場などで焼き物として出されたようです。一般の人々は、なますや和え物、田楽などでもボラを味わっていたようです。

ボラ漁は魚見小屋と言われる見張り小屋を設置し、漁期には4人1組で泊まり込み、ボラの大群が回遊してくるとほら貝を吹いたり旗を振るなどして合図しました。合図を受けて村人は総出で出漁します。漁は紀州から伝わった八艘張網という漁法で網に群れを追い込む形で捕獲していたそうです。ボラ漁は昭和30年代を境に全国的に行われなくなりましたが、富戸には魚見小屋が残り、1955年(昭和30)に静岡県の有形民俗文化財に指定されました。この際、激しかった破損箇所を補修しました。今もその姿を離れた場所から見ることができます。

またボラ漁に使用する大量の網や道具類を収納していた納屋は漁の拠点として「ぼら納屋」と呼ばれていました。残念ながらこちらは現存していません。復元された建物が海鮮料理の店として利用されています。

富戸のぼら納屋 対島村役場撮影 金子浩之氏提供

ボラは出世魚で鰡(ボラ)から鯔(トド)に変わる。
鯔(トド)以上に成長しないことから、これが「とどのつまり」の語源になった

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