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伊東の著名人:1 木下杢太郎

木下杢太郎 1885〜1945 

1885年(明治18)8月1日、伊東市湯川で「米惣」という雑貨問屋を営む太田惣五郎の三男として誕生。地元の小学校を卒業後上京し、独逸学協会中学校(現・獨協学園)に入学します。1898年(明治31)には第一高等学校に入学、当時教鞭をとっていた夏目漱石に英語を学びます。1906年(明治39)東京帝国大学医科大学に入学、医学の道を進む一方で、同じく医師であり文学者でもある森鴎外とも交流を持ったり、芸術面の才能も伸ばし続けたのでした。亡くなるすぐ前にも「僕は『木下杢太郎』と言う長編小説を書いてみたい」と見舞いに来た知人に語っていたそうです。


太田母斑の発見や真菌の研究で知られる太田正雄は、医学者として世界にも広くその名を知られています。太田にはもう一つの名前があります。筆名である木下杢太郎です。伊東ではこちらの名前のほうが知られているかもしれません。学業優秀な杢太郎は小学校卒業時に家族から医学の道を勧められていましたが、本人は画家や文学者を目指したかったそうです。しかし兄である太田圓三(土木技術者、鉄道技師)は、当時杢太郎が心酔していたゲーテを引用して「ゲエテは生物学を修めたからあの大をなしたのである。爾(なんじ)も其課程をつづけなければならぬ」と諭しました。ゲーテは文学者ですが生物学者でもあったのです。

そして杢太郎は医学の第一線で成果を上げていくのですが、併せて文学や絵画についても作品を残し評価を得ていきました。与謝野鉄幹・晶子の「新詩社」に参加し小説や戯曲を制作、北原白秋や吉井勇と「パンの会」を結成し、さらに制作に励みました。絵画でも森鴎外の翻訳本『ファウスト』や与謝野晶子『心の遠景』の装釘を手掛けたり、晩年の1943年(昭和18)から45年には医学者としての観察眼も活かされた植物画『百花譜百選』を872枚も描きました。まさに、日本のゲーテとして活躍したのです。

業績を称えて伊東の市街地には「伊東市立木下杢太郎記念館」があり、その足跡をたどることができます。展示室の裏には1835年(天保6)に建てられた生家(市指定文化財)が当時のまま保存されています。


 

市街地にある木下杢太郎記念館。国の登録有形文化財に登録されている

兄の太田圓三は、関東大震災後の東京を震災に強い都市に改造するため、帝都復興院の局長となり尽力した。

長兄の太田賢治郎は、第2代伊東市長や県議会議員として伊東の発展に寄与してきた。伊東音頭は賢治郎が白秋に依頼し出来た。

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