伊東を掘りおこそう!

伊東の宝物

たがねで手作りされた装飾の神輿は約1トン!

豊漁と湯川の平和を願う例大祭

かつては別の村であった湯川地区と松原地区。鎮守様も湯川は鹿島神社、松原は八幡神社と異なりますが、例大祭は同じ10月の第2土・日曜に行われます。夜は両地区をそれぞれの屋台が練り歩くなど、隣り合わせながらお互いにお祭りを盛り上げてきました。
同じ日にお祭りを行うので違いはないのでは? と思いきや、やはり地区ごとに特徴があります。
湯川地区のお祭りについて、鹿島神社の宮司である太田昌明さんに教えていただきました。

湯川にだけ残る浦安の舞

祭りの準備は1ヶ月前から始まります。

祭りには神輿の担ぎ手(白丁)、特に先棒(はなぼう)という一番トップで担ぐ人、鹿島踊りを踊る人、しゃぎり(お囃子)を笛や太鼓で演奏する人などたくさんの役割が必要で、1ヶ月前に消防団でくじ取りを行い、役割を決めます。
それから祭りまでの間の1ヶ月、笛や太鼓、鹿島踊りの練習を行っていきます。最後の仕上げは祭りの1週間前の3日間。
社務所に若者たちが集合し、踊りや演奏を練習し続けます。以前は一晩中稽古したそうですが、近年は住宅と社務所が近くなったこともあり、11時までと決まっているそうです。

お祭りの流れは松原や他の地区とほぼ同じです。

1日目は夕祭(よいまつり)で、神輿を蔵から出し、宮司さんが祝詞を奏上し、御霊入れを行います。
御霊入れというのは、神様の分霊を神輿にお載せすること。御霊とは具体的には何か……それは、宮司さんだけが知っていますが、一般の人の目に触れることはありません。
御霊入れのときには宮司以外は目を伏せています。

そして白丁と言われる32人の担ぎ手たちが口に紙をくわえ、先導以外は一切声を出さずに神輿を担ぎ、海岸に向かっていきます。宮司さんも声を出しません。

午前中、伊東駅近くはじめ伊東の街を練り歩き、要所要所で練り(神輿を担いで右に3回、左に3回ぐるぐる回る)を行い、御仮屋となっている湯川会館へ向かいます。

その後、海岸で宮司さんが祝詞を奏上します。祝詞はお祭りのときに何回か奏上されますが、言葉はすべて異なるそうです。言葉は異なっても、内容は同じ。
おしなべて「湯川区民が安全で穏やかな日々を過ごせますように」という祈願です。海岸での祝詞には「海が穏やかで静かに、そしてたくさんの魚が穫れますように」という内容も入っています。

奏上のあと、御仮屋に神輿をおさめて一晩留め置きします。

夜は湯川各地区の屋台(8台)が引き回されにぎやかなお祭りとなります。松原地区の屋台(13台)も出て、双方が行き交うので伊東駅前の大通りは大変にぎわいます。

【本祭】

2日目。
この日が本祭です。

9時からお式が始まり、白丁が神輿を担いで浜降りし、そのまま肩まで浸かるほど、海に入っていきます。これを海中渡御といいます。伊東の各地のお祭りで、神輿がひたるほどの海中渡御をするのは湯川と松原のみ。新井地区でも担ぎ手は海に入りますが、神輿が潮につくことはありません。

午前中に鹿島踊りを捧げ、御舟歌や浦安の舞を奉納してお昼となります。

浦安の舞とは皇紀二六〇〇年の記念祝典のときに全国各地の神社で行う奉祝のために作られたもので、昭和天皇御製の和歌を歌詞としています。かつては全国各地でも踊られ、伊東の各地区でも舞われていましたが、伊東では湯川のみに残っています。

鹿島踊りは、海の安全祈願や供養のための踊りです。白い衣装で15人の男衆が歌いながら踊ります。

お昼の後、今度は神様を神社にお戻しするために再び担ぎ、市内を練り歩いていきます。途中、何箇所かの十字路で練りを行い神輿を回しますが、湯川と松原の境界のところで両方の神輿が出会うと、双方がぐるぐる回って競い合います。ここも祭りのハイライトの1つ。
観客は拍手喝采です。昔はぶつかり合いもしたそうですが、今はそういうこともなくなったそうです。

大体4時ぐらいに鹿島神社に戻り、御霊を神社にお戻しし、お祭りは終わります(夜はまた屋台が出てにぎやかになります)。

湯川と松原は隣り合わせていますが、湯川は沿岸にあるため漁師が多く、お祭りも半農半漁の集落だった松原では「豊漁・豊作」を祈願しますが、湯川では「豊漁」を祈願するお祭りとなっています。

2日めの夜には祭りに関わった人たちは社務所に集まり飲食を共にします。かつては宮司さんの自宅で行っていたそうですが、時代の変化とともに社務所で行うようになりました。

このときに、昔は箱寿司を食べたりもしたそうですが、今は毎回必ず食べるということでもないそうです。

【伊東一大きい? 見事な神輿は1トン】

ひときわ目を引く湯川の神輿。伊東の中でも湯川のものは特に大きく、おそらくは伊東で一番の大きさでは? とのこと。総重量はなんと1トン。

最初に神輿を作ったのは昭和3年、昭和天皇の御大典のときでした。浅草の職人さんが手掛け、金属部分の装飾は、多くの神輿が金型で型押しするプレス加工なのに対し、湯川のものは全て人がたがね(金属を加工する”のみ”)で作っている手の込んだもの。

神輿は神様をお載せするわけですからどこの地区のものも荘厳なしつらえとなっていますが、それを海中渡御で惜しげもなく潮につけるのは、伊東の中でも湯川と松原のみ。

毎回の海中渡御で金属部分に緑青が出るなどしてきたため、2019年に修理を行い、すっかりきれいになりました。金属部分は、今回もたがねで仕上げられ、金メッキ部分も補修されピカピカです。

しかし、新型コロナウイルスの影響で、修理が終わった神輿はまだ潮に浸っていません。人々の気持ちを沸き立たせ、集落の平安を願うお祭りが以前のように復活することを願わずにはいられません。

 

※併せて松原地区のお祭り記事も御覧ください。

関連記事

PAGE TOP