伊東を掘りおこそう!

伊東の宝物

白装束に口に紙 神輿は無言で海に伊東の海に神が降りる日

その土地の神社にとって最も重要な神事、例大祭(秋祭り)。伊東市の中心にある松原地区の例大祭は、かつてはこの日のために地域全体が準備を重ね、当日は地域中が活気と熱気であふれる一大行事でした。

神輿を担ぐときは白装束を着て、担ぎ手は一切口をきかず口に紙を加えて練り歩くという独特の風習は、荘厳さも相まって、今も地域のみならず観光客の心をも沸き立たせる大イベントとして続いています。詳しいお話を、八幡神社の宮司である島田靖久さんにお伺いしました。

2日間に渡る壮大な祭り

松原の鎮守様は八幡神社(通称・松原神社)。半農半漁の村だった松原らしく、例大祭での祝詞は豊作豊漁を願う内容となっています。かつては鰹を漁る漁師たちが多かった松原では、祭りの担い手である漁師たちが遠洋での鰹漁から戻るのを待ちかねて祭りの準備をしたそうです。

だからなのか? かつては祭りのそこここに粗粗しい所作もあり、元気のあふれた漁師たちのパワーが炸裂したそうです。

昔から旧暦の9月14・15日に行われていたこの祭りも、時代が変わり、土日しか休みがない職業の人が増えてしまったため、現在では10月の第二土/日に開催されるようになりました(祭りは2日にわたり行われます)。

【1日目 夕祭(よいまつり)】

1日目は午後から夕方まで神事を行います。要所要所で宮司さんによる祝詞の奏上があり、豊作豊漁や地域の安全などが祈願されます。

朝、神社の御霊を御輿にうつし、白丁(はくちょう)と呼ばれる担ぎ手によって、町内を何箇所か廻りながら練りを披露します。練りというのは十字路のようなところで担ぎ手がぐるぐる廻り、神輿も回ることです。勢いよく回転する担ぎ手と神輿の様子を見て、観客たちは拍手喝采して祭りを盛り上げます。

午後3時頃に御旅所(御仮屋と言われる場合もある)と呼ばれる小屋まで担がれ、若衆たちによって警護されながらここで一晩を過ごします。

祭りの中心を担う若衆とは、現在の消防団に当たる若手男性の集団ですが、かつては地域の生活を守る重要な集団でした。八幡神社の宮司をされている島田靖久さんのお父様であり、やはり宮司職に就かれていた島田千秋さんが著した「伊東覚え書き」には「昔から伊東十六ヶ村にはそれぞれ『若衆組(わかいしぐみ)』という若い男たちのためのきびしい掟を持つ組織があった。この組織は徳川治世に入ると間もなくつくられたものらしく、御条目とか議定書といった掟書をもっていて、村内若者を錬成する場であると共に、村の祭礼に奉仕し伝統の維持や海難、火災、水難などの救済活動に挺身する団体でもあった」と書かれています。

まさに地域の中心集団だったわけです。お祭りの実行役となるときは奉仕団と名前を変えていたそうです。

防災から祭り行事を担うのは大変なことですが、一方では名誉なことでもありました。エリート集団という一面もあったようです。昔は若者が多かったので、誰でもが若衆に入れたわけではありませんでした。

祭りでの白丁や、夜に屋台でお囃子を演奏する「したかた連」は若者の憧れ。みんながやりたがったので神籤取式(みくじとりしき)というくじ引きを行い、当たりを引いた人しか関われませんでした。

くじにはずれてしまった若者が、どうしても役に付きたくて、当たりを引いた者に贈り物をしてまで「代わってくれ」と言ったという逸話さえあったとか。

【掛け声なしの静かな神輿】

伊東での神輿は「わっしょい」などの掛け声は一切なし。先導だけは神輿を上げたり下げたりするための掛け声を出しますが、白丁は白装束を着て、口に紙(口紙という)をくわえて一切声を出しません(落としたら係がすぐ補充してくれます)。神事であるということで「無駄口を聞かないように」ということなのかもしれません。

島田さんは、子どもの頃の記憶をたどり、

「白丁たちは無言でみこしを担ぎ歩き、練りのときは白足袋がシュシュシュと地面に擦れる音がして、ちょっと不思議だけれど厳粛な気持ちになったものです」と話してくださいました。

神輿が御旅所に到着した後、夕方からは松原地区各町内の屋台(山車)が出るにぎやかな一夜となります。白丁たちは仮装をして「八幡丸」という名の立派な屋台に乗り込み、「したかた連」が太鼓をにぎやかに演奏し、「八幡丸」は町内を練り歩きます。かつてはこの日のために、お囃子の演奏者は古老のもとで1ヶ月も前から練習に励んだそうです。ちなみに、松原では一部の時間だけしか笛は演奏されず、太鼓と鐘のみのお囃子が主流です。

このときは神事ではないので掛け声をかけながら屋台を曳きます。

♪やてろーや、やてろー さんやれさんやれ

伊東の言葉で「やってやろう、さあやれ」、そんな意味だそうです。

「八幡丸」のほかに松原の町内会それぞれも屋台を持っており、現在その数は13台。この夕祭は湯川地区とも一緒に行われ、湯川からは8台の屋台が出て練り歩きます。

屋台にほどこされた木彫はそれぞれ異なるのだそうです。お祭りに行くことがあったらぜひ見比べてみてください。

屋台同士がすれ違うときは、お囃子のテンポが早くなり「うちのほうがうまく演奏しているぞ」と技を競い合ったりもしたそうです。

また、かつては屋台には竹ひごの先に紙の花飾りをつけたお飾りが何本もつけられていて、すれ違うときにはお飾りがぶつからないように竿で避ける係もいたそうです。時にはその竿を使ってケンカになったりもしたとか。その様子を沿道の人たちも見て、歓声をあげて盛り上がったことでしょう。

子どもたちにとっては、屋台の見事さや大人たちのお囃子、立ち並ぶ露店などに胸を躍らせる夜だったに違いありません。

【2日目 本祭】

朝に祝詞を奏上。10時頃になると御旅所から神輿が発御します。そして町内の5〜6ヶ所で練りを披露し、休憩しながら海岸べりにある海津美(わだつみ)神社を御旅所として休憩します。その後、白丁たちは神輿をかついだまま海の中へ入っていきます。これを海中渡御といいます。伊東の各地でも神輿を担いだまま海に入る地区がありますが、神輿が波をかぶるほど沖まで入るのは松原と湯川だけだそうです。

島田さんによれば、江戸時代までは白丁は紋付袴で、海に入ることはなくせいぜいヒザ下が潮に触れる程度だったそうです。白装束を着て海の中に入るようになったのは明治時代から。

海中渡御は3回行われます。これには意味があり、神社を創建したと言われる伊東祐継が、海から3体の尊像を引き上げたという記録があり、3回行うのは尊像が3体だったからということです。

海から上がると白丁たちは御旅所で着替えし休憩、その後、御登りといって、神輿が神社へ戻ります。町を歩く道中で、同じように海中渡御を終えた湯川地区の神輿と練り合いをします。これがかつてはけんか神輿といって激しい競り合いにもなりましたが、現在はそのようなこともなくなったとか。

御霊を神社に戻す還御の儀式があって神事は終わりです。

夜は再び屋台が出て、にぎやかにお祭りが繰り広げられます。

お祭りをめぐるコラム

【松原と湯川のけんか神輿と村の境界】

松原と湯川はかつて別の村でした。

松原神社は大水のため長田(現在の松川町)に遷座していましたが、また出水のため、その場所から江戸時代まで湯川の宮元という場所に遷っていたそうです。『豆州誌稿』によれば、湯川の鹿島神社と同じ場所に隣り合わせていたとされています。現在の松原の場所に移ったのは昭和21年。計画自体は昭和3年に始まり、その後、用地を買収、整地や石段の構築、参道の整備などを行ったところまできて、昭和5年の群発地震、昭和8年の北伊豆大地震さらに満州事変などが次々起きたたため、移転が昭和21年にも延びてしまったとのこと(以上は島田宮司の資料より引用)。

湯川にあった頃に氏子になった家は、今でも湯川に住みつつ松原神社の氏子であるーーということもあるそうです。

同じ林内に湯川の鎮守様である鹿島神社と八幡神社が並んでいた頃は、境内の境界に「境石」と呼ばれる石があり、それは村の境界でもあったとも考えられていたそうです。少し前まではこの石も現存していましたが、2022年現在は不明です。

隣接している地域なので、境界をめぐっての意識もあってけんか神輿も盛大だったのではという見方もあります。

【神輿を2階から見下ろしてはいけない】

神様をお載せしているわけですから、神輿を高いところから見下ろすのはご法度だそう。地元の人はもちろん心得ていて、決して2階から神輿を見るようなことはしません。今でもです。

観光客などそのしきたりを知らない人が2階から見ていたりすると、地元の人に「こら!」と怒られます。

【松原神社の創建時期について新発見】

今まで、松原神社は伊東祐継が文治年代(1185〜1189)に創建したと伝えられていました。建立の理由として言い伝えられていたのは、祐継が海中から得た霊像を祀るためとのこと。しかし、祐継の没年は1160年(永暦元年)とされており、文治年代だと、没後20年経ってから創建したことになり、それほどまでに時間が経ってから建立するのはあり得ることなのか、謎を残していました。

そこで島田宮司は古い書物などを調べ研究を続けてきました。すると、平成24年(2012)、島田宮司の祖父にあたる島田信平宮司の個人メモが見つかり、そこには、祐継が尊像を海中から得た年は久寿元年(1154)であるとされており、また江戸時代まで八幡神社の鍵取別当(管理役)をしていた曹洞宗・松月院から、その本山へと届出が出されたと記述されていたため、祐継の没年との相違も解消され、創建も同年であろうことが確実になったのです。

2020年8月には、改めて神社に伊東祐継の顕彰碑を建立し、広くこの史実を知らせる除幕式を行いました。

※この記事は八幡神社の宮司である島田靖久さんにうかがったお話と、島田さんのお父様でありやはり宮司だった島田千秋さんが著した「伊東覚え書き」を参考にして制作されました。

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