伊東を掘りおこそう!

歴史

歌舞伎でも有名な『曽我物語』と伊東氏・河津氏

東林寺には今も曽我兄弟の首塚が父の墓の横に並ぶ

江戸時代の浮世絵画家 歌川広重の描いた『曽我物語圖會』

鎌倉・室町時代に伊東の地で勢力を持ち領地を保有していた領主には狩野氏、伊東氏、宇佐美氏が知られていました。宇佐美氏、伊東氏は鎌倉幕府の御家人として活躍し、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にもその様子が記されています。中でも源頼朝の側近として活躍した武将に工藤祐経がいます(工藤姓ですが同じ藤原氏の流れをくむ一族です)。工藤祐経が広く知られているのは、日本三大仇討ちの一つであり歌舞伎の演目として全国の人々の涙を誘った『曽我物語』の主要人物でもあるからです。

『曽我物語』は曽我兄弟(曽我十郎祐成と曽我五郎時致)が、所領争いが原因で父である河津三郎祐泰を暗殺した工藤祐経を恨み、18年後に仇討ちを果たすが、兄(十郎祐成)はその場で討ち取られ、弟(五郎時致)も処刑されてしまうという物語です。悲劇的な物語は日本人の情感に広く訴えかけ、江戸時代には歌舞伎の演目としても大変人気を博しました。

『曽我物語』は伊東はもちろん、神奈川県小田原市や静岡県富士市なども登場するため、各地にゆかりの記念碑や墓などが残されています。伊東には、東林寺に曽我兄弟の首塚と父である河津三郎祐泰の墓があり、今も参拝者が訪れています。江戸時代には八幡野の名主であり御典医でもあった肥田春安によって『曽我物語』に登場する名所の版画が作られ、観光客を喜ばせたそうです。現代では、NPO法人伊東市文化財史蹟保存会の手による『伊東本曽我物語』が2011年(平成23)に出版され、市民の間で話題になりました。

河津三郎祐泰が落命したといわれる所に建立された血塚(八幡野)

東林寺には河津三郎祐泰と曽我十郎祐成と五郎時致兄弟の 首塚が並んでいる

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