伊東を掘りおこそう!

歴史

小田原の城や街を造った伊東の材木

天城山はじめ伊豆の山から伐採された材木が造る都市

戦国時代に北条氏が勢力を拡大すると、城下町となった小田原はにぎわいを増し、北条氏の臣下や町民にも建築材料としての材木の需要が高まりました。このとき、北条氏は伊豆から材木を調達したようです。天城山(狩野山)や伊東山で伐採された材木は伊東まで運ばれ、港から船で小田原に運搬されたそうです。北条氏が治めていた時代、小田原は都市として拡大し、伊豆半島全体が重要な材木の供給源となっていたようです。このため、一般庶民の伐採は禁じられ、狩野山奉行だった大川神左衛門尉父子がしっかりと材木を管理していたようです。

これはもっと以前の時代から変わらず、源頼朝が開府した鎌倉時代には、鎌倉が政治の中心となったため、都市が形成されました。この時代にも伊豆半島は材木を採る重要な場所の一つでした。『吾妻鏡』にも「頼朝は伊豆国へ赴いた。これは新規に建立する寺のため、日頃材木を調達している狩野山を観察するため」と書かれています。猪野山の伽藍や神宮寺、鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)のために集めた材木は、伊豆からも調達されたと考えられています。

伊東は港があり、また背後の山が豊かである上にそこには杉・檜が多かったため、1343年(康永2)静岡市清水区の久能寺が焼失から再建を目指したときも狩野山周辺から材木を切り出し、船筏で運んだことが『久能寺縁起』に記されています。

静岡市清水区にある久能寺も伊豆の木材で造られている

鶴岡若宮(鎌倉鶴岡八幡宮)

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